かつて「三菱が原」と呼ばれていた荒れ地に全長四四五メートルのこの大きな駅舎が完成したのは大正三年(一九一四)のこと。
建坪にして三〇〇〇坪、七三万人の人員と二八〇万円の予算をかけた駅舎としては非現実的ともいえる大建築だった。
東京の中心に一大停車場を建設し、東海道・東北・中央の各線を連結して日本の鉄道網の中心を作ろうという構想は明治中期からあったが、日清・日露の戦争で延期されたいきさつがあった。
やがて東京にも中央ステーションをという機運が高まり、「大風呂敷」の異名をとったときの鉄道院総裁、後藤新平により日露戦争勝利を記念してプランが巨大化した。
設計は日本銀行を手がけた辰野金吾で、当初は駅舎を三つに分割し中央は皇室専用の出入り口、向かって右側のドームが入口、左のドームは出口専用という不思議なレイアウトをとっていた。
そして各ドームを赤レンガの壁面で連結しこのような長大な駅舎となった。